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読書メモ:デリダ、ルディネスコ『来たるべき世界のために』

デリダ、ルディネスコ『来たるべき世界のために』の私的読書メモ。

August 17th, 2020

あくまでも、普段哲学に全く触れない無知な学生のメモなので、何かを期待することはよしてください。

1章 みずからの遺産を選択すること

脱構築の概念自体は知っているつもりだったが複雑なことを再認識した。脱構築は、日本ではいわゆる近代批判、ポストモダンにおける一つの概念として紹介され、社会学における議論でも近代批判の文脈で用いられるイメージが強い。

しかし、脱構築の本当の目的は遺産の相続であって、過去を肯定し直し解釈することである。構造主義批判という側面でいうならば、それは構造主義者の主張の持つドグマ的契機を突き止め、それを認識することに、脱構築の価値がある。つまり、構造主義を否定しているわけではない。他の例をあげるならば、フーコーの監獄の誕生で言われる可視性と不可視性の対立を、ある可視性からバーチャルな可視性への移行と読み替えることを意味する。ただし、脱構築をする相続者は単なる客体とも言えず、むしろ過去からの要請をもって選択をなすある種の行為主体性を持っている。ここが難しいところだと感じた。

哲学は相対主義に陥るべきでないという指摘にもハッとさせられた。哲学とはギリシア的、普遍的なものであって、たとえそれがヨーロッパの系譜を引くとしても、それが全ての人々に影響を与えるのであって、常に境界を見直す作業が求められている。現代、相対主義が跋扈し様々な当たり前が問い直されている。こういう時代にこそある種の普遍的な考えを受け入れることに価値があるのかもしれないなどと考えた。

2章 差異の政治

同一性を求め差異を完全に超克しようとする共同体主義や、差異が絶対的であるという思想にも陥らないために、どうしたら良いのかということが議論の肝となっている。そこで登場する概念が差延であって、それは差異の持つ時間的・空間的運動を表している。よって、差延は対立とも限らないし、固定される必要もないものだ。

具体例をあげると、ナショナリズムやフェミニズムが一つの同質性を求める共同体主義の例として挙げられている。デリダはこれらの考えを警戒をもって慎重な同盟を結ぶべきと主張している。また、その結果なされる政治的応答や決定はしばしば"Yes or No"の選択に還元されるが、あちらかこちらというキッパリした定義よりも、あちらでありこちらであり緊急性を鑑みてどちらかといえばあちらという選択が良いんじゃないかと主張されている。

しかしながら、上のような選択をすることによって、ある差異をなくすことで新しい差異を生み出すことも否定できない。例えばPolitical CorrectnessやAffirmative Action、正当性といった考えに基づいて、過去のテクストを否定したり制度を転覆したりすることがこれに当たる。例えば、タバコを吸う場所を制限することで、タバコを吸うか吸わないかで公共空間は分断されるだろう。

遺産から決断迫られる自分はどのように正しいと思われる決断をすれば良いのだろうか。もちろんそれに対する答えは一つに限られず文脈に応じて決断されるべきと言うののがデリダの回答だろう。この沸きらなさが首尾一貫しない人間らしい態度なのかもしれない。決断に関しては4章でも議論される。

3章 秩序化されない家族

同性愛や人工授精といったテクノロジーに関する問題を切り口に家族を脱構築している。

家族そのものがある種想像の産物である一方で、生殖を軸に構成された社会的絆が歴史的に存在してきたことは自明。父親は母親には生物学的(科学的と言っても良いか?)なものと、社会的・象徴的なものがあり、後者の意味において家族は規範、法の下で制度化および組織化されてきた。しかし、こうした組織化は実は完璧ではないことにも留意する必要がある。(法的フィクション)例えば、乳母と母親、義母というように、様々な家族の亜種とも言える形態が存在してきた。また昨今騒がれるクローニング技術やバイオテクノロジーは突如降って湧いてように見えるが、原理的にはこれまでも存在していた。そもそも、細胞はそもそも反復や複製を繰り返している。

ここで重要なのは、家族を社会的構成物にすぎないと切り捨てることでも、家族を生物学的・自然主義的に捉えることでもない。どちらかに偏ってしまうと、同性愛を生物学的言説から病理化してしまうといったような状況に陥ったり、過激な保守思想に系統してしまう。そのため、この二つの考えを人間はどのような因果律で結びつけ家族を捉えてきたかを問い直すべきだ。

具体例として論争されているのが、生物学的な親と社会的な親が異なる場合、子供は生物学的な親を知る権利を有するかどうかという点で議論がなされている。ルディネスコは知る権利を擁護し、デリダはそもそもの意識にとっての有効性は無意識を通過せざるを得ないのであるが故にそれに対して疑問を呈している。

4章 予測不可能な自由

科学主義を批判し、科学を脱構築している。科学主義とは、要は人間や社会、現象を実験的に検証可能なプロセス(「機械」)に還元し、予測可能なものとして決定論的に捉える姿勢のことである。

計算不可能な来たるもの、他なるものは、機械的計算で決定的に導くことはそもそもできない。科学を正しく実践する姿勢はこの来たるべきものを迎え入れる姿勢にある。この来たるべきものに対して応答するか応答しないかは個々の自由の空間が開かれると言えるが、来たるべき未来がわからない中決断するべく定められているという点で「自由」という言葉は適切ではない。

そこで、これを歓待と言い換える。歓待には2種類あり、予測不可能な来たるべきものに対してオープンである「純粋な歓待」と、それに対して限界づけを行った「条件的歓待」がある。例えば、移民政策は条件的歓待が求められているが、しばしば責任のない議論が行われていとデリダは批判している。他方、科学にも常に余白が残されているはずで、来たるべきものを歓待しそれに対して過去と現在を踏まえた応答責任をもった議論が行われるべきだ。

言われてみると当たり前なような気もしてくる。科学は既存の知では理解できない自然や人間活動を対象とするため、予測不可能なものが存在していることを前提としている。そのため、行き過ぎた科学信仰は批判されるべきだ。コロナウイルスをめぐる騒ぎの中でも同じことを感じた人は多いのではないだろうか?

5章 動物たちへの暴力

ルディネスコから動物と人間の境界が功利主義的、認知主義的に行われることへの違和感が示される。例えば、精神障がい者よりも類人猿の方が賢いのだから類人猿にも人権を認めるべきと言った議論は、否定されて然るべきだ。

デリダもこれに同意する。彼は、動物と人間の境界は、一つではなく無数に存在しそれが結果的に人間と動物の境界になっていると主張した上で、人間と動物の同質性、画一性が普遍に存在するという前提も批判する。これにより、既存の「人間 vs. 動物」の構図を脱構築を目指している。前者の議論を、人間に固有とされる言語系や精神世界がいわゆる動物の一部にも存在していることや、認知能力が備わっていることからから示している。

以上の前提に基づき、人権や動物の権利、ジェノサイド、ゾフィールといった概念の脱構築を目指している。つまり、単純に人間に認めているのと等価な権利を動物に割り当てるようとする姿勢を強く批判している。では、具体的にどうすれば良いのだという話に自然と帰着するが、デリダは禁止を肯定する一方で、禁止を過剰(例えば、法で制限すること。これによって生まれる衛生主義的で無菌化され不毛になった社会。)に行うことへのリスクも示している。検閲することで新たな抑圧構造が生まれうる。また、人間が残虐さは完全に自由になることはできない。そのため、コンテクストにそった応答責任があるという結論を導いている。

6章 <革命>の精神

この章は難解だった。

革命に注目していくつか議論がされていて、共産主義とファシズム、フランス革命の話が取り上げられている。例えば、ソ連の崩壊に象徴される理想の堕落によって崩壊した共産主義が「喪に服している」状態にあると言われている。要は、完全に共産主義の考え自体が死ぬわけでもないんだけど、効力を持たない状況にあって、共産主義者は沈黙を、反共主義者は強迫的な否定を迫られているような状況にあるというようなイメージ?

7章 来たるべき反ユダヤ主義について

この本でも一番長い部類に入る章。デリダ自身、アルジェリア生まれのユダヤ系であり、特に幼少期のアイデンティティーから話が展開されている。タイトルの通り、来たるべき反ユダヤ主義にどう立ち向かうのかということが議論される。

現代には反ユダヤ主義が再燃している。一方、これは社会からも無視・黙認されている。これは否認的な良心が機能している。いわゆる、「ユダヤ人が苦しんだということはよくわかっているが、やはり彼らは大袈裟だ」というような考え方である。これは人種差別主義においても同じような原理が働く。一方、反ユダヤ主義に対する否定主義陣営からは、ホロコーストの戦略的な利用がされ、いかなるユダヤ人に対する否定も反ユダヤ主義と教義づけられる。(ユダヤ人じゃなければユダヤ人やイスラエルを批判できないと言ったおかしな事態が起こる。)

では、来たるべき反ユダヤ主義にどうやって対抗すれば良いのかという問いが生まれる。具体的には、反ユダヤ主義的な内容を含む、含みうる出版物をどのように扱うかという課題がある。現状アメリカなどでは、著者が法的責任と遵守の義務をおい、出版社は厳密には禁止しなくてよいという方式をとっている。デリダは法律で禁止すること全般を批判する。デリダにとっては応答責任が問われることが常に重要なのであって、検閲全般に非常に慎重な姿勢を見せている。

この章では、様々なトピック(家族、人種、他者性、死刑など...)が取り上げられているため、上のまとめもたった一つの解釈に過ぎない。どの議論も興味深く、何度も読みたくなる章だった。

8章 死刑

死刑を巡るこれまでの議論における様々な矛盾が指摘されている。例えば、生存権を盾に妊娠中絶に反対する人が熱烈な死刑賛成論者であったり、カトリック教会が熱烈に死刑賛成の立場をとってきたり、死刑廃止を訴えたフランス革命が恐怖政治に帰着したことなど。なぜこうした立場が正当化されてきたのかということを端緒に議論が行われている。詳しい議論は本を参照されたい。

後半部では、功利主義的な善悪判断や司法的、政治的判断に基づく表層的な死刑反対論を超えて、許すという概念の問い直しが行われている。つまり、死刑を真の意味で廃止するには法権利を超えた無条件で不可能な許しが必要になる。とはいえ、人間に許しを与えるのは神だけであって、この問題を扱うのには非常に困難が伴う。ここから最終章で取り扱われる宗教の話に繋がる。

死刑の痕跡に関する議論は非常に興味深かった。アメリカの場合、死刑執行は注射によって行われ、可能な限り恐怖のない形で行われる。そして、死刑執行の前に受刑者の最後の発言が残されしたいは家族に返される。そのため、死刑そのものには痕跡が存在するという議論だ。

9章 精神分析礼賛

最も理解できなかった。フロイト、ラカンといった精神分析を知らないため、ほとんど理解できなかった。再度勉強し直していつか読み直したい。

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© Hiroki Kameyama