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書評:”An Artist of the Floating World”

大学の授業中に取り扱ったカズオ・イシグロの”An Artist of the Floating World”(浮世の画家)の書評。

August 29th, 2019

 カズオ・イシグロの”An Artist of the Floating World”(浮世の画家)における日本、信頼できない語り手、戦争責任のあり方について論じる。特に授業での議論を下敷きにして議論していく。

 まず、イシグロが浮世の画家で描く日本は、実際の日本とは異なっていることに留意する必要がある。この作品を実際の日本と仮定すると、現実との違いが浮き彫りになる。例えば、作中で登場する「ゴジラ」はその典型的な例だ。イシグロはこの作品以前にも戦後の長崎を舞台にした作品である”A Pale View of Hills”を書いており、この作品においても同様であることが複数の専門家から指摘されている。

 荘中〔2011:229〕はイシグロ作品のナガサキと実際の長崎が明確に異なっている点を、「イシグロが描いた『ナガサキ』と現実の長崎とのずれは、ほとんど意図的なものであったと言うべきである。 … その現実と虚構、あるいは現実と過去のあわいにこそ、小説家としてのイシグロの力量が発揮される領分が存在するのであり、創作かとしての彼の矜持がたもたれているのである。」 と主張している。つまり、イシグロは自らの過去の体験を基本に人工的なナガサキの過去を構築して、それを意図的にフィクションとしての小説に閉じ込めているということだ。日吉〔2017:78〕は、イシグロ作品がナガサキという複製を詳細に創り出すことを可能にした理由を、「『遠い山なみの光』と同様に、『浮世の画家』においても、日本映画から西洋の演劇まで実に種々雑多な日本像が借用されているのである。」 として、イシグロの表現する日本やナガサキが様々な作品から影響を受けていると指摘している。さらに、日本を描いた理由として、「イシグロは、オノを通じて、西洋人による日本への異国趣味に釈然としないものを感じながらも、結局は自らの出自を武器として、ステレオタイプな日本像を売りさばくことを選んでしまった自分、そしてその結果、自作の有する普遍性が読者からないがしろにされるという罰を受けることとなった自分自身の姿を自嘲的に描き出そうとしていたのである」〔日吉 2017:112〕 と主張する。

 両者が主張するように、浮世の画家において描かれる日本、ナガサキは現実には異なっており、それらはイシグロの過去、現在を通して作り出された人工的な虚像である。一方、作品で取り扱われるテーマは普遍的なものであり、それを議論することには一定の価値があるのではないだろうか。以下では、この前提のもと、特に物語中の縁談のエピソードに着目して、浮世の画家における信頼できない語り手と戦争責任のあり方を論じていく。

 読者にとってオノの戦争責任が初めて問題として顕在化するのはノリコの縁談だ。まず、この縁談に関して事実関係を整理していく。作中でノリコは二度縁談を行う。最初の縁談はミヤケ家とのもので、もう一方はサイトウ家との縁談だ。ミヤケ家との縁談は相手型の家が身を引いたことで破局した。最初の縁談の破談やノリコの年齢も考慮した上で、セツコからは過去に関する誤解を避けるために”precautionary steps”が必要であると控えめに提案される。それに対し、オノはそのような処置を行う必要はないと初めは頑なに否定していたものの、次第に不安になりかつての同僚、マツダの家を訪ねる。そこで、オノはマツダにサイトウ家から調査が来ても不利になることは言わないよう頼み、その承諾を得た。マツダからはクロダと再度会うよう進められる。クロダはかつてのオノの一番弟子であり、オノ自ら加担する形で国家から反逆者の烙印を押された。そこで、オノはクロダのもとを訪れるも、クロダは留守中でクロダの弟子であるエンチからもオノが正体を明かすと、反逆者、裏切り者として家を追い出される。その後、クロダには個人的に会いたいという旨の手紙を送るものの、そっけない返信が返ってきたのみだった。場面はノリコとタロウの見合いに移る。オノは見合いの場で、クロダが教鞭を取る大学へ通うサイトウ家の息子ミツオを過剰なまでに警戒する。そして、突然とも見えるタイミングで、オノは自らの過去の行いを過ちとして認め、当時は誠意を持ってした行動であったと、サイトウ家とノリコの前で弁明する。弁明の後から、偶然とは思えないほどお見合いは上手くいく。オノは自らの過ちの告白は決して楽なことではないが、満足感、尊厳を伴うものだったと自己陶酔にひたる。

 ここでまず注意すべき点として、縁談のエピソードそのものにも「信頼できない語り手」の問題があるということだ。つまり、オノの視点から語られる物語と実際の事実関係が噛み合わない箇所がいくつか存在している。その中でも特に三つの問題について考えていく。第一の問題は、セツコは果たして”precautionary steps”に関する助言を本当に行ったのかどうかという問題だ。物語の後で明らかになることに、セツコはそのような助言をしていないと否定する。第二の問題は、オノの過ちの告白がお見合いに良い影響を及ぼしたかという問題だ。セツコ曰く、ノリコが手紙で何度も伝えてきたことには、オノが過去の過ちについて認める発言を行ったことに、ノリコやサイトウ家の人たちも驚き当惑していた。ここから、オノの過ちの告白は突然行われたことが予想され、オノの告白をきっかけにお見合いが上手くいったということは、オノの気が晴れたから主観的にそのように見えただけという解釈も可能となる。そう考えると、オノのミツオへの過剰なまでの警戒も自意識過剰としても見えてくる。第三の問題は、オノはサイトウと以前から知り合いだったのかという問題だ。オノはサイトウと挨拶程度の面識があり、お互いの仕事についても尊敬しあう仲であることを、回想を含めて詳細に描写し、その事実を確信している。ただ、後にセツコからはそのような事実はなく、サイトウは縁談の話が持ち上がった後、初めてオノが画家であることを知ったと聞かされる。オノはサイトウが自分の作品や名声を知らないことはありえないと確信しており、プライドが傷つけられる。以上から分かる通り、縁談を取り巻くエピソードには信頼できない語り手の問題が存在し、オノの画家としての影響力、彼自身の自覚する戦争責任や周囲から糾弾される彼の戦争責任には客観性が存在しない。

 ここからは、信頼できない語り手の議論を意識した上で、縁談のエピソードから読み取れることを、整理していく。ミヤケ家との縁談の破局に関する具体的な理由は明らかにされないが、読者が想定する破局の理由は、オノの過去の戦争加担をミヤケ家が知ったことである。そのため、セツコがサイトウ家との縁談をうまく取り行うために指摘した清算すべき過去とは、オノが戦前に書いたプロパガンダ的な作品や言論統制を行なった事実であり、”precautionary steps”とはサイトウ家が調査するであろう、オノの過去をうまく隠蔽することである。オノはセツコと話した後、”precautionary steps”を取っていく訳だが、この様子はシンタロウとも重なる。戦前、シンタロウもオノと同様プロパガンダポスターを描いており、現在教師の職を得るため、過去にそのポスターを進んで描いた事実をもみ消そうとする。しかし、オノは過去から目を背けるべきではないとして、シンタロウを非難する。シンタロウの行動は”precautionary steps”そのものであり、それはオノがマツダやクロダに対して行なった行動と重なる。そのため、オノは自分をシンタロウと違い過去の過ちを認めた上で過去に誇りを持っているとしているが、客観的に見るとシンタロウがオノに突っぱねられる様子は、オノがクロダに突っぱねられる様子と重なり、見合いの場で自らの過ちを認めつつ弁明し自己陶酔する姿も合わさって、読者にはオノの虚栄心や醜い自尊心が露骨に明らかとなる。  オノは過去の過ちを認めることで、過去の画家としての影響力も同時に認めることになる。そのため、過ちを認める一方で、過去に自身が書いたプロパガンダ絵画に信念を持ち、その事実に後悔はないとすることが、オノの自尊心を守るための唯一の方法である。だから、オノはサイトウ家の前で過去の過ちの告白を行い、シンタロウを糾弾し、不敬にもかつての師であるモリさんの家を見下ろしたことを思い出して、充足感を得られるのではないだろうか。

 ここで生じる疑問は、自己肯定感を第一に行動し「信頼できない語り手」として読者の前に現れるオノにとっての戦争責任は、どのように構築されるのかということだ。木下〔2019:152〕は「彼にはおのれの過去の信念を肯定し、自己正当化することしか頭にないのである。そのために、彼の思いこみと客観的事実との間にずれが生じ、『信頼できない語り手』になってしまうのだ。」 と指摘している。この議論に則るならば、過去の過ちを正当化してオノの画家としての影響力を自他共に認知されていたとすることで構築された戦争責任とその体験が、客観的事実と食い違っていると考えられる。 一方で、倉田〔2015:100〕はオノが戦争責任を認めるが、それを天皇に対する敗北責任ではなく、民に苦痛を与えた責任としている点と、戦後天皇を始め日本人が戦争責任をタテマエでかわしてきた様子に注目し、「オノはいわゆる『信頼できない語り手』だが,読者にとって彼が信頼できないことは,このように決して彼だけの『責任』ではない。オノをとりまく浮遊するタテマエの集積が,彼の自己イメージを攪乱するので,その意味では彼のまわりのすべての人が『信頼できない語り手』である。」 と主張している。つまり、戦争責任はオノと周囲の人々のホンネとタテマエの間で曖昧に構築され、オノは一人の語り手としてその曖昧な戦争責任を語るという説明がなされている。  木下と倉田の議論を元に考えると、戦争責任を認めることで「信頼できない語り手」が構成され、「信頼できない語り手」によって戦争責任という概念が曖昧に構成されていくという相補的な関係が見えてくる。ただし、結局のところオノをはじめとした人々がどのように戦争責任を負い、贖罪するべきかという問題は解決されないまま残る。この小説において、オノが個人としてどのような戦争責任を持っているのか、過去の過ちがなぜ起きたのか、その過ちをどのように償うことができるのかという問題が、曖昧なまま戦争責任として認められてしまい、本質的問題が棚上げとなる。この構造には他者も関与しつつ出来上がるもので、オノはその構造に気づかずに自身は高明な画家であると自尊心や自己肯定感をもって体験している。これは、丸山眞男の提起した「無責任の体系」概念と近似する。つまり、脆弱な民主主義の元、個人的には罪悪感を感じようとも、組織としてはなし崩し的に破滅に突き進んでしまい、結果的に誰に戦争責任があるのか曖昧なままとなってしまった戦後日本に近い構造を持っている。作中の戦後日本はあくまでもイシグロの人工的に創り出したものであり、完全に照合することはできないが、戦後日本や現代日本を理解する上で、重要な問題提起をしているのではないだろうか。

参考文献一覧

  • 荘中孝之(2011)『カズオ・イシグロ − 〈日本〉と〈イギリス〉の間から』春風社
  • 日吉信貴(2017)『カズオ・イシグロ入門』立東舎.
  • 木下卓(2017)「カズオ・イシグロにおける戦争責任 – 『信頼できない語り手』が語る戦争」, 『カズオ・イシグロの世界』PP. 141 – 161, 水声社.
  • 倉田賢一(2015)「『浮世の画家』における抹消された天皇」, 『人文研紀要』82, PP. 95 – 103, 中央大学人文科学研究所.

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